脳文一致体
(2018/5/9)
明治の頃、口語と同じ文体で文章を書く言文一致体という手法が発明され、現在は小説でもブログでもそれが常識になっているわけだが、それまでは文章と会話は異なる形式で書くものだということが常識だったことは今から考えるとかなり不思議に思われる。あまりに常識になってしまったので文語体だの候文だのが存在したこと自体が不思議に思われるほどである。
さて、言文一致は究極の記法だろうか? 頭の中で何かを考えるとき、句読点だの接続詞だのを意識しているはずはなくて、雑多な思考が漠然と並んでいるのではないだろうか。雑多な思考を会話や文章にするには、誰もが理解できる形式でシリアライズしなければならないので、そのための手間がかなりかかっているはずである。たとえばこういう記事をブログとして書くためには文章化の手間がかなり必要で面倒なものである。
頭の中で考えたことを書いたり伝えたりする場合、整った文章にしなければならないという考えを変えれば良いのかもしれない。その第一歩として箇条書きで情報を書いたり伝えたりする手法をもっと広めてみればどうだろう。考えを文章にするのではなく、箇条書きにして並べたりブロック化したりしてそのまま外に出す。
箇条書きで何かを書くのは文章を書くよりはるかに楽である。講演のテキストを読むよりスライドを見る方がよくわかることもある。つまり脳内情報を書き出したり交換したりするためには、普通の文章よりも箇条書きの方が向いている可能性がある。
参考
#ブログ 2018/5/9